そうだ!名前を付けよう

その他

竣工までは名無し山荘

別荘の設計をしていたころ、設計をしてくれた親戚から、

「図面や契約書に書く山荘の名称は何にしましょう?」と聞かれたのですが、当時父親は、名称など何も考えていなかったので、とりあえず我が家の苗字をそのまま「〇〇山荘」としてもらっていました。

~山荘? ~荘? ~亭? ~堂? ~軒??

別荘ライフがスタートした父親も、家族で出かけたり、人を誘ったりするときに、「別荘へ行こう」というのは、ちょっと違和感を感じていました。80年代の後半、世の中はバブルの頂上めがけて急上昇しているころだったので、別荘もブームとなり、同じ別荘地の中でも1億8千万円の別荘などという大きな庭園を構えたいわゆる豪邸の別荘もあり、わが○○山荘は、こじんまりとしていて「別荘」とはだいぶかけ離れた印象だったからです。

当時の父親の手記に、別荘ライフの準備も落ち着いてきて、人が訪れるようになって、「そうだ、名前を付けよう!」と思い立ち、いろいろと案を思いめぐらせていたことが書いてあります。

山荘なので、「〇〇山荘」、「〇〇荘」?、あるいは、ちょっと気取って「〇〇亭」、「〇〇堂」、などたくさんの案が浮かんでは消えていったようです。

赤松山荘? 松籟荘? 松陰亭?

別荘が建った土地は、赤松と落葉松(からまつ)が多いところです。

「赤松山荘」、あるいは、「松籟荘」、「松蔭亭」などが浮かんできました。でも、「~荘」は、東京の木造アパートのイメージが強くてあえなくボツ。松蔭亭は、回廊式庭園の一角にあるあずま屋のイメージで、庭園からは程遠い現地には似合わないし、上野公園にある創業140年の老舗和食レストラン「韻松亭」のパクリになってしまい、恐れ多いのでボツになりました。

当時は、まだ、ネットもない時代なので、何か参考になるものはないかとか、どこかで使われていないかなど調べることもできず、案を考えるのも自分や家族の知識か、辞書や百科事典で見てみるぐらいしか手がありません。

同じ別荘地内を見ても、「~山荘」は、会社の保養所などちょっと規模の大きいところが多く、これもイメージにぞぐわないし、ありきたりでおもしろくないということでボツ。

また、京都の伏見の泉涌寺来迎院という深く緑に包まれたお寺に、「含翠軒」という茶室があり、父親は、ここの素朴な雰囲気が近いので、「~軒」はどうか? と考えたのですが、「~軒」はラーメン屋のイメージしか湧いてこないと、家族の猛反対に会い、ボツとなりました。

~堂か? ~庵か?

「山荘」も「荘」も「亭」も「軒」もだめだとすると、残るは、「堂」か「庵」しかないなあ、とだんだん絞り込まれてきました。

「~堂」はだれもが知っている京都の詩仙堂がありますね。さすがに、詩仙堂の格には遠く及ばないし、「~堂」というのもなにか、皆が集うところのイメージがあり、ボツとなりました。

結局、俗世の人里から離れて隠れ住む草庵のイメージがぴったりなので、「~庵」がいいね、と家族の意見もまとまりました。

何庵にしよう?

父親は、「~庵」の案を一週間ほどかけて好きだった中国古典の唐詩選や、

古文真宝などから、郷里の田園で農作業などしながら隠遁生活を送った、陶淵明などの漢詩をもとに、これはという案を20個ほど選びました。

そして、6つの案に絞り込んだと、手記には記されています。

              由来・説明
東籬庵
とうりあん
菊を采(と)る東籬の下、悠然として南山を見る(陶淵明:「飲酒」という詩の一節)
俗世間を離れて心を虚にして自然を楽しむ心境を詠んだ詩
忘憂庵
ぼうゆうあん
此の忘憂の物に汎うかべて、我が世を遺わするるの情を遠くす
(こちらも、陶淵明:「飲酒」の一節)
勤めを辞めて故郷に帰り、自然と一体になって暮らす心境を菊の花を酒に浮かべて飲む様子表した
青苔庵
せいたいあん
空山人を見ず 但(ただ)人語の響きを聞くのみ
返景(へんけい)深林に入り 復(ま)た青苔の上を照らす 
(王維:晩年に輞川の別荘で読んだ詩)
ひっそりと静まりかえった山の中にでわずかに人の声が聞こえてくる。
夕日の照り返しがさしこんで、みどりの苔をあざやかに照らし出している
一葦庵 
いちいあん
一葦の如(ゆ)く所を縦(ほしいまま)にし、萬傾の茫然たるを凌ぐ
(蘇軾:『赤壁の賦』から )
一本の葦のような小舟が(川の流れに)行く所をまかせて、広々とした果てしない景色の中を進んで行く
三径庵
さんけいあん
三径(さんけい)荒(くわう)に就けども、松菊猶お存す (陶淵明:帰去来辞より)
隠者の住居の荒れ果てた庭にも、緑変わらぬ松と清らかな香りの菊はまだ残っている
隠遁(いんとん)生活にも昔の知己がいることの例え
去留庵
きょりゅうあん
巳(や)んぬるかな、形を宇内に寓すること複(ま)た幾時ぞ、なんぞ心に委ねて去留
任せる(陶淵明:帰去来兮辞より)
どうしようもないではないか。生き身のままこの世に暮らしていられるのは、
あとどれぐらいであるというのか。どうして、とどまるのも行ってしまうのも思ったままに
しないのであろうか。

などなど。どれも、俗世から離れ、自然に身を任せて暮すようなシチュエーションで詠まれた漢詩なのですが、漢詩が出所だとちょっと高尚すぎて、説明するのも面倒くさく、気恥ずかしい気もするのでこれまたボツ💦

遠藤周作氏の「狐狸庵」のような、ユーモアのあるある名前がいいね、と路線変更し、家族で考えるようになりました。「~庵」はほぼ決定で「~」のところは、ふりだしに戻ってしまいました。

何かいい「庵」はないか?

季節はもう夏。別荘内の居心地を快適にするDIYをいろいろ進めて、家の周りは放っておいたので、7月にはすくすくと雑草が伸びて人の肩の高さほどにもなり、まさに草ぼうぼうの状態になりました。

これを見て、ふと、父親は「ぼうぼう庵」はどうか? と思いついたようです。

「ぼうぼうあん」なら、響きもいいし、ちょっとユーモラス。思いつくなり、家族も賛同、即決定でした。ただ、さんざん漢詩を探していたとき、日ごろのあわただしさを忘れてのんびりする気持ちを込めたかったようで、何かいい当て字はないかと悩んでいます。

そうだ! 忘忙庵 にしよう!

「ボウ」という読みの漢字を思い出すことしばし、私が、それなら「忘忙庵」は? と提案

「忘忙庵」なら、日ごろの忙しさを忘れて、のんびりするのをぴったり表していて、見ればいちいち説明しなくてもわかる! っということで、その場であっさり決まりました。

それからは、「忘忙庵」が別荘の呼び名になり、現在に至っています。
今回は、ちょっと小難しい話もありましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

これからは、いままでの忘忙庵ライフのエピソードや今を書いていこうと思います。やっと暖くなる日も多くなり、そろそろ小屋開けに行きたくなってきました。

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